蝕 刻 画  

中学校は校区内に行かず、世に言う「越境入学」をした。
徒歩で25分程度であった。家を出て、学校まで1分毎に
通過ポイントを設定して、時計を見ながらの通学だった。
北畠親房を祭った阿部野神社の境内を通り、手塚山の豪邸
を横目で見ながらだった。帰りは万代池へ寄り道をした。
15クラスの内、3クラスが越境組。しかも、1・2・3組
が、越境の生徒ばかりで構成された1年生であった。  
戦時中の高射砲陣地跡に建てられた新生の大阪市立第15
中学校。木造平屋の校舎。パネル校舎、今で言うプレハブ。
鉄板校舎は、文字通り、壁も屋根も鉄板造り。幸いにして、
わたしはこの鉄板教室に入ることはなかったが、その暑さ・
寒さときたら、授業どころの騒ぎではなっかたようだ。 
夏は休憩時間に屋根に、バケツ(ブリキです。青いポリでは
ありません)で水を撒いていたが、これも焼け鉄板に水で、
大した効果はなく、逆に焼き芋を作くるのには、もってこ
いであった。体育祭は、中百舌鳥陸上競技場。隣には南海
ホークスのグラウンドがあった。


こんな物が残っていた。「蝕刻画」である。 
エッチングといった方が分かるかもしれない。


原 版

銅板面に塗ったコーティング剤の上に、鉄筆で絵を画く。  
鉄筆で画いた所のコーティング剤が剥がれ、銅板が露出する。
これを銅と反応する硝酸液などの中に浸け、銅を腐食させて、
版画の原版を作る。                   
腐食作業は、危険で難しいので、先生がしてくださった。  
印刷は、われわれ生徒が行ったように記憶する。   





わたしの作品
少々分かり辛いので、モノクロで、下に示します。



並んでいる順番は本物とは異なるが、「大文字・鳥居・舟形」がある
その地で学ぶことを予期していたかのように           
糧を得る会社の仕事を暗示するかののような鉄塔まがいの大きな橋脚
堺駅前にこの夏開店した「プラットプラット」のような建物    
空には米ソの冷戦崩壊を予測させる
MIG15F-100の編隊飛行   
今こうして、改めて見てみると、自分自身の将来に関わるものが描か
れているとことに、驚きを憶える   


なお、エッチングについては、
武蔵野美術大学 造形ファイル」をご参照ください。
大変詳しく書かれています。




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平成12年10月 8 日(2000)

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