学 芸 会  




5年生の時の「学芸会」 中央の木の前がわたし
♪♪秋の夕日に 照る山 もみじ     

   濃いも薄いも 数ある中に・・・ ♪♪
主題曲は「もみじ」であったが、物語は全く覚えていない

1年から5年までは、4クラス編成。一クラスが60名近く。
入学当時は校舎が足らず、低学年は午前、高学年は午後の2部授業。
皮のランドセルなど手にすることが出来ず、ボール紙を芯にした布張りだった。

給食は、脱脂粉乳とパン。パンと言っても今のように白いものではなかった。
脱脂粉乳を口に含み、それを吹き出して遊んだりもした。曲がりなりも給食の準備室
が出来たが、人手が足りないので、母親たちが手伝いをしていたように思う。
運動会には、この給食用の大きな鍋で"ぜんざい"を作ってくれた。とても美味しく、
皆が「おかわり」していた。母などは「ぜんざい屋のおばちゃん」と呼ばれていた。

音楽の授業は、古ぼけたオルガン。専任の音楽の先生が着任したのは確か4年生の時
この頃、校舎を新築するために、木造平屋建教室が、木製のころの上を何日も掛かり
運動場を横切っていった。

「まくり」「DDT」をご存知だろうか。食料事情の悪かった日本人のお腹は寄生虫が
いっぱいだった。これを駆除するため、コカコーラの出来損ないのような「まくり」を
飲まされた。とてもとても飲めるものではなかった。頭にはシラミやダニ。こちらは
今は使用禁止になっている「DDT」を頭からぶっ掛けられた。首筋からシャツの中ま
でも粉を放り込まれた。
集団大掃除もあった。地区地区で実施日が決められていて、その日はどの家も一家総
出で、畳を上げ道路に立て掛け、畳たたきで埃を叩き出して虫干し。床に敷いてある
新聞紙を取り替え、その上にDDTを撒いて、畳を敷き直す。
これらのお陰で、日本の衛生事情は急速に改善されたいった。

教室は今のように空調が効いている筈もない。天然の冷暖房だ。少し財政に余裕が出
来たのか、冬には教室の真ん中にに火鉢が置かれた。1m四方の木製で、内側にブリ
キが張ってある代物だった。大きな五徳に大きな茶瓶を載せていた。
この頃、給食のひとつの楽しみ方があった。学校近くのお店で2cm角ぐらいの1個
10円のバターを学校近くで買って登校。お昼前にこれを火鉢の横に置いて、程よく
溶かしておくのだ。給食時、パンにバターをつけ、それに家から持ってきた砂糖を塗
して、食べる。とても美味しかった。そうそう、遠足のおやつは森永のチューブ入り
のチョコレートがお気に入りだった。生をそのままチューブに入れるだけだから、板
チョコより安かったと思う。


6年生に上がる時、教室に余裕が出来たので、5クラスに再編されることになった。
今なら2年ごとに全クラスをガラガラポンでの再編であるが、残り1年しかないため
各クラスから10数名を抜き出し、新たなクラス"5組"を作ることとなった。
6年の始業式は運動場に4クラスで整列。その後、全員が屋上に上がった。
「これから名前を呼ばれる者は、5組に移るので、返事をして、こちらに並ぶように」
と4組の横を指差された。「1組・・・」 この中にわたしも入っていた。
指名が終わり、確認のため人数を数えたら、ひとり足りない。4組からの・・・
今度は、担任の発表。「1組・・先生」 何も声はない。6年間変わらずである。
「2組・・先生」「3組・・先生」「4組・・先生」 順に歓声は大きくなる。
いよいよ5組。先生の名が告げられた。今しがた、それぞれの友と別れた生徒たちを
待っていたのは大きな大きな落胆だった。学校で一番怖い先生が担任になったのだ。

母校のクラスは、「1組、2組・・・」という普通の呼び方とともに、先生の名を冠
して『・・ホーム』という呼び方もしていた。教室の上の表札は、ホームであった。

それから1年、卒業の日を迎えた。卒業式のあと教室に戻り、めいめいが卒業証書を
受け取った。怖い先生は、「この一年、先生にデボチンをパシッとやられへんかった
子、手ぇ上げてみぃ」と。女の子も含め誰一人、手を上げるものはいなかった。





6年生の時の「学芸会」 『万年筆』
5つの組から選抜された生徒と先生合同で

2枚の写真に、当時の小学生の服装が偲ばれる


5組の教室の後の壁には、鉄棒の種類(前まわり、逆上がり・・・)と児童の名前が
表になっていた。わたしも含めて体操の苦手な子も1年間でこれらの鉄棒ができるよ
うになろうと、クラス全員の目標とした。成功すれば○をマジックインキで書いた。
わたしなどはなかなか出来ず、丸が増えない。昼休みや放課後、練習。既に出来た子
や先生が手助けに来てくれる。ぼちぼち○が増えていく。そして、卒業の時に、その
表は○で埋まっていた。男の子は「地上回転」も課題だった。先生がうまく手をすけ
てくださり、だんだんとコツが飲み込めてくる。いつのまにか、先生は格好はするが
手は触れてはいない。それを何回か繰り返し「出来てるぞ!」と声が掛かる。本人は
びっくり。走る。弾みをつけて、マットに手をつく。一瞬景色が廻る。ドスンと足が
地べたに着く。出来たぁ!! 卒業時に男の子の殆どが、出来るようになっていた。

冬の昼休み、給食を終えた後、皆でした「おじゃみ」や「おはじき」が懐かしい。
修学旅行は、お米2合を持って、伊勢へ。宇治山田まで急行で3時間ほどだったよう
に思う。この時、わたしは軽い結核にかかっていた。参加出来るかどうか、際どいと
ころであったが、先生が「責任をもって連れて行く」と言ってくださったようだ。
殆ど毎年、大晦日の上六発宇治山田行き「迎春号」でお伊勢さんの参拝をしていたが
友と行く外宮、内宮はやはり趣が違った。今もありがたく思っている。

長い間中断していた同窓会を開いた。住所が分かっていたのは5名ほど。いろいろと
苦労を重ね、半数以上が判明。20名近くが出席してくれた。思い出話に花が咲く。
先生にご挨拶をお願いした。「同窓会の知らせを受け、今日ここにくるまで、二つの
心配をしていた。その一つは、どれだけ集まってくれるだろうか、だった。そして、
もう一つは、皆に何を言われるか、仕返しをされるか。もう体力は逆転しているし。
でも、余計な心配だった。ありがとう。さっきから、『センセ、こんなことあったん
ですよ』と、皆から声を掛けられ、そんなことを覚えてくれているのか。教師冥利に
尽きる。ありがとう・・・・」。もう、声にはならなかった。
5組混成学級で1年を過ごしたことが、他の組の人たちが味わえなかった良き思い出
となって、皆の心の中に残っている。





この画面を閉じてください

サイトマップ ホーム> 思い出あるばむ > 「のんちゃん」って!? > 学芸会
   

平成12年10月 8 日(2000)

Copyright 2000 Non-Chan Osaka,Japan