☆ 初 フ ラ イ ト ☆

中学2年の時、八尾空港からセスナで大阪上空を遊覧飛行しました。今となっては定かではありませんが、中学校で「少年航空クラブ」とかが募集され、4、5名が応募したようです。行事としては取り立てて何もなく、八尾からのフライトの数ヶ月後、堺港から水上機で大阪散歩。後にも先にもこの2回だけで、一体なんだったんだろうと、疑問だらけのクラブでした。費用も全く要りませんでした。

このアルバムをご覧くだっさた大阪府内の浜本さんが、とても貴重な情報をお寄せくださいました。枠で囲って示しています。浜本さん、どうもありがとうございました。
(平成12年1月16日)

Dufour機長から、V尾翼のボナンザについての消息をお寄せいただきました。
貴重な情報をありがとうございました。
(平成13年9月24日)


昭和31年(1956)のある日、大阪・八尾空港

初フライトの八尾ですが、校長先生とクラブの責任者の先生など、10名ぐらいで、皆が授業している平日に出かけた次第です。滑走路脇まで行き、順番を待っての初搭乗。天王寺や難波、大阪城辺りが見えた記憶があります。フライト時間は20分ぐらいだったでしょうか。降りた後も数時間、爆音が耳から離れず大変困ったことを思い出しました。今から40年以上も前の昭和31年のことです。 


JA3040「ありあけ」


この機体は当時、日本観光飛行協会所属で昭和28年9月に購入されたものです。日本観光飛行協会は後に、日東航空、日本国内航空、東亜国内航空となり、現在の日本エアーシステムとなった会社(団体)です。
このJA3040は、後に日本国内航空時代まで活躍しましたが、昭和40年春に解体されました。

垂直尾翼の下前側にかすかに写っている4文字は、NATAで何かの略語だと思います。日本観光飛行協会の略語かと思いましたが、スペルと略語が合わないので、何を意味しているのか不明です。
私も元上司から昭和33年ごろの八尾の写真をいただいて、この飛行機が写っていました。


後ろに写っている格納庫は戦時中19号格納庫と呼ばれた建物で、私たちはCABハンガーと呼んでいました(航空局所有であるため)、また、後ろの平屋は八尾空港事務所です。
これらの建物も空港施設移転に伴い昭和62年ごろ取り壊されました。




右主翼先端のところに、自転車が。なぜ?
このV尾翼機は何という名前なのでしょうか?

『ボナンザ』というのだそうです。
「Fly Hisa」さん、「山屋」さん、ありがとうございます。


この場所は、飛行機の横に溝が見えますが、この溝がある所は滑走路ではなく駐機場だと思われます、この溝はCABハンガーから数十メートル西に当時あった新明和工業の八尾工場格納庫(旧航空工廠格納庫)の横にあり、そこで撮影されたものと思います。現在、地下鉄八尾南駅北側の跡地です。

この機体は、当時、朝日新聞航空部が所有していた「天風」という愛称のJA3088 (ビーチクラフト C−35 ボナンザ)ではないかと思われます。
朝日新聞社で用途廃止となった後、自家用機となってしばらくの間、関東(調布?)にいましたが、エンジン故障で不時着破損しました。その後、操縦席を切り取って、どこかの学校か施設に展示してあるそうです。(20〜25年ぐらい前になるそうです)

また、朝日新聞社の機体が八尾にあるということは、伊丹がまだ米軍の管理下にあって 八尾飛行場が阪神飛行場と呼ばれていたころではないかと思われます。

(私の知っている限りでは伊丹返還は、昭和33、4年ごろ)


背景左側の煙突の煙は方角からみて堺市の大阪金属(現ダイキン)の煙突のようです。戦後まもないころは、飛行場から大阪金属と大阪セルロイド(現ダイセル)の煙突が見えていたという話を元上司から聞いたことがあります。



Dufour機長からの情報を以下に記載いたします。

JA3088は、荒川さんという元ボクサーかプロレスラーの所有となって、竜が崎飛行場に昭和45,46年ごろ置いて有りました。大柄の荒川さんが友人などを乗せて飛んでいたのを覚えています。ボナンザのVテールバージョンは少なかったですね。スピンの回復特性が悪かったようです。

荒川さんも亡くなってしまいましたが、機体も無くなってしまったのですね。


 

操縦桿は右席のみ。ヘリコプターのように
機体中央部から太い支棒が右に伸びています。


これは、JA3088「天風」の操縦席です。
ドアの下にローマ字の右斜め装飾体でAの字が見えますが、これはローマ字で「ASAHI SHINBUN」と書いてある一部だと思います。
(当時、朝日の機体は胴体などにこの字が書いてあった)
操縦桿は、古いビーチクラフト機では左右いずれかに変換できる機構になって
いるものが多く、たまたま右位置にしてあっただけだと思われます。



 

堺港から水上機、初体験

堺港(堺市・大浜)からのフライトは、南極観測の初期の頃に観測船「宗谷」が積んでいった通称「ビーバー」と呼ばれる飛行機と同じ機体です。離水は堺港から西に向かって行ない、着水は海側から東に向かってでした。着水の時に何度かバウンドしたのは憶えていますが、どの辺りを飛んだのかは全く記憶にありませんでした。アルバムを見ると・・ 

 学生帽をかぶっているのが我々。桟橋から搭乗したように思います。


この機体は、JA3040と同じく日本観光飛行協会の所属で当時、大阪(堺)〜白浜の不定期輸送に使用していたJA3043(デ・ハビランド・ビバー DHC−2)です。
愛称は「あさあけ」と言い、JA3040と同じく昭和28年9月に購入され29年に水上機に改造されました。33年には水陸両用機に改造、そして35年に陸上機に再び 改造され、39年琵琶湖で大破しなくなりました。
途中、産経新聞航空部のチャーター機となった時期もあったそうです。

当時のパイロットは多分、 藤本 直氏か寺坂 功氏ではないかと思います。(戦後、水上機不定期運送では、このお二人ぐらいしかいなかったと聞いております)
また、当時の整備士は私の元上司で、機体整備の他、乗客の方の機体へ乗り込むための ボートの操船や運転手もやられたそうで、お元気で現在も和泉市にご健在です。

この機体は、昭和29年ごろ(?)のゴジラ映画の2作目に、水上機の実写シーンに登場しました。(
パイロット役は、小泉 博か、千秋実だったかな?)

これらの写真は大変貴重なもので、特にビーバー機の堺からの離水シーンは、今では JASの資料室(?)ぐらいしか、ないかも知れません。


 

 

天王寺上空から西を。中央に通天閣が見えます。
 

 

中央が今、解体工事が行われている大阪球場。
その右にドーム型屋根の南海・難波駅が見えます。



大阪府内のS.Nさんが、ご父君ののアルバムから水上機の写真を見つけられ、ネット検索でこの頁を見つけられました。そして、貴重なお写真と情報を昨12月にお寄せ下さいました。S.Nさん、どうもありがとうございました。
(平成21年1月9日)

〜〜〜 S.Nさんがお寄せ下さったお写真です 〜〜〜















浜本さんの情報の中に「39年琵琶湖で大破しなくなりました」とありますが、この件に関して、S.Nさんからは・・・
  11月21日の「探偵ナイトスクープ」で、琵琶湖で墜落した飛行機のプロペラとエンジンが見つかったこと、そして、昭和39年7月4日に琵琶湖の浜開きの取材中に、「アサアケ号」が墜落したという新聞記事もあったこと、機体だけは直ぐに引き揚げられていたことを放映していた。  
と書き添えられたいました。

残念ながら、この番組は見てはいませんでしたが、プロペラ発見の記事は確かに新聞に出ていたことを覚えています。
これらの情報がどうやら、S.Nさんのご父君とわたしが乗った『あさあけ』のことのようです。


更に、新春の広報「さかい」に、来年は市制120周年を迎えるとして、これまで大きな出来事が載っていましたが、その中に・・・
  1922(大正11)年に堺・大浜と徳島・小松島の横須海岸間に日本初の民間定期航空路が開設され、その後、高松、今治、大分、別府、白浜に定期航空路が開設され、また、遊覧飛行、郵便用飛行、魚群探知を行なった。  
とありました。


S.Nさんのご父君のアルバム、探偵ナイトスクープの放映、広報「さかい」の記事、何とも見事なタイミングではありました。




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−平成11年7月4日−

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