2003(平成15)年〜2009(平成21)年




「タイムスリップ」
12月13日(土)撮影

 

大坂城三の丸と推定される場所の堀が発掘されました 389年前にタイムスリップです

BK 9階の「放送機器ギャラリー」
大正14年のスピーカーや敗戦後のマイクロフォンなど
BK 9階からの「難波宮(なにわのみや)」遺跡公園






枠に入っている2枚のよく似た写真は、『立体写真』です

「後期難波宮・朝堂院」と「大阪城・梅林」
3月7日(日)
時折、横殴りの雪が舞う午後、難波宮公園内の「朝堂院」の現地説明会と「大阪城・梅林」に行って来ました









さいた さいた さくらがさいた
10月7日(木) 大阪市旭区・新森中央公園










京阪・森小路駅から東へ400mにある「新森中央公園」、1930(昭和5)年に発掘された「森小路遺跡」でもある
公園のいちょうは、もう銀杏がいっぱいの秋なのに、この夏の陽気(?)に誘われてか、公園内の桜が咲きました





明 日 香 村 真 弓
12月3日(土)
奈良県は明日香村のマルコ山古墳の直ぐ東にある「カヅマヤマ古墳」が、飛鳥では初めての「磚積式石室」と分かりました。又、石室の南側半分がずれ落ちており、1361年に起きた正平の南海地震よるものではないかと考えられています。その現地見学会がありましたので、行って来ました。

磚積(せんづみ)式とは、「西壁」で分かるように
長方形に切った板石をれんがのように積み上げ
る方式 その左側と手前に地滑り跡が見えます


詳しくは、こちらをご覧下さい



2007(平成19)年

堺環濠都市遺跡
5月26日(土)

15世紀後半のものと推定される最大で幅17m、深さ4.5mの堀
この堀は秀吉の命により土塁の土で埋め戻されたと考えられている


その後、南側に新たな堀が掘られ(↑)、それが埋められてまた南に(↑)
右二段の上の堀は江戸時代のもので、ゴミ捨て場として利用されていた





400年もの時を超えた堀が同時に見られるのは極めて稀なことである





宇治川護岸遺跡 「太 閤 堤」
9月8日(土)

丁度正反対の位置からの写真2枚で、左写真の右、右写真の左、先の方に現在の宇治川が流れています




宇治川護岸遺跡 「太 閤 堤」
12月22日(土)
9月8日の現地説明会の場所の上流側で新たな堤が見つかりました

左奥が先回の発掘場所


先回の堤は石を組み上げていましたが、今回のは「杭止護岸(仮称)」です     左は、上の写真の左端部


最初の写真の左奥の部分です





雪の真弓鑵子塚古墳
「まゆみかんすづかこふん」と読みます
2月9日(土)

見学者の列は、中央右よりの木々の向こう側から、左側へと木々の間に続いています



時折激しく舞う雪の中、2時間余りしてようやく・・・


腰を屈めても頭が岩にぶつかる入り口部

出口の手前で振り返って


中央上部の大きな石は天井部です
(6枚の写真を悪戦苦闘、繋ぎました)


←南        玄室の長さ:約6.5m 幅:約4.4m 高さ:約4.7m        北→







弥 生 時 代
2月16日(土)

橿原市/萩之本遺跡

「水田遺構」とその近くにある「灌漑施設」です


北へ600mほど移動の途中
高速道路の橋脚建設位置の向こうに二上山が見えます



橿原市・大和高田市/川西根成柿遺跡
水田遺構の北にある「環濠集落」です

発掘された「壷」や「石庖丁」などです


集落の遺構と大溝
大溝には橋が架けられていた遺構も見つかりました


明日香村 甘樫丘東麓遺跡
3月29日(土)
昨年の2月11日に現地説明会があった本遺跡のその後の調査結果です
昨年はもしかしたら「蘇我氏の邸宅に関連するかも・・・」でした
今回はその西側の発掘ですが、掘立柱建物、塀、土坑、溝が確認されて、
蘇我氏の邸宅と関わる可能性があり、全体像を解明する必要があるとしています




年代決定の決め手となった土器の出た「土坑1」 今回の調査区の北東隅




西端の塀の跡とそれに続く建物の跡











大和川今池遺跡(難波大道)
5月24日(土)

幻の難波大道が、大和川西岸線建設に先立つ発掘調査で確認されました
道幅はおよそ17m 西側溝・東側溝のそれぞれ中央からはおよそ18.5mあります







宇治川太閤堤跡・庭園遺構
8月30日(土)
2008(平成20)年のこの日付のblogにも掲載しています


太閤堤跡訪問は、今日が三回目。一回目は昨年の9月で、宇治川右岸で初めて石張り護岸の太閤堤が見つかったとき。二回目は一回目の東側に杭止め護岸が発見された昨年の12月でした。

今回の調査は、一回目と二回目の中間部の護岸の高さがどの程度のものかを確認し、史跡申請の範囲を確定するためのものでしたが、思わぬ大発見となりました。

左下の方形に囲んだ石組みの中に黒い色をした石が見えていますが、これは火を燃やした跡であることが分かりました。
その上の楕円形に見えるのは、直径がおよそ2mの小池と断定されました。

築堤の石組みの上にこのようなものがあることは今までに例がなく、茶をこよなく愛した太閤がしばしば築堤工事を視察し、その際に茶の湯を愛でたのではと考えられています。

なお、史跡申請にあたり、今まで使ってきた太閤堤は淀川のものと混同しやすいため、『宇治川太閤堤跡』を正式名称とすることが決まりました。

近々、詳細頁をご覧頂けると思います。


平城宮 第一次大極殿正殿復元
9月23日(火)

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二層部の屋根





初層部の屋根と二層部の正面側


初層部の屋根と二層部の側面側






檜前遺跡群(キトラ公園内遺跡)
9月27日(土) 午前
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藤原宮朝堂院朝庭
9月27日(土) 午後

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大極殿院西面回廊
9月28日(日)

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世界遺産 平城宮跡
9月28日(日)

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高松塚古墳壁画修理作業室公開
11月8日(土)




高松塚古墳は7世紀末から8世紀初めに造られたもので、1972(昭和47)年3月21日、石室内部に壁画が描かれていることが判明しました。
詳しい調査の結果、星宿図、女子群像、男子群像などが極彩色で描かれており、1974(昭和49)年に国宝に指定されました。
壁画の管理は明日香村から国(文化庁)に移管されましたが、残念なことに壁画が痛み、現在は石室全体が解体され、修理作業室内で復原作業が行なわれています。

今回、第二回目の作業室の一般公開が行なわれ、5357人の応募者から抽選で4418人が見学出来ることとなりました。
11月1日、一般公開に先立ち明日香村村民に公開されました。
翌2日から9日までの8日間に3302人が壁画と対面しましたが、作業室内は撮影禁止でした。

上は、参加証(当選はがき)と頂いた資料の表紙です。

公開時は作業は行なわれておらず、二重のガラス越しに解体された石室の壁面石を見ました。手前に北壁の「玄武」と西壁の「女子群像」を見ることが出来ました。既に報道されているように、発見時の極彩色の輝きは消え失せ、痛み汚れてしまった壁画との対面に悲しみを覚えました。












縄文時代晩期中葉遺構面
京奈和自動車道関係遺跡
12月7日(日)


本 馬 地 区
御所市教育委員会



近鉄御所に到着
車止めまでは相当あります


近鉄御所駅



JR御所駅の南の踏切を渡り・・・

近鉄御所駅から東へ約2kmの御所市本馬

上層面遺構は弥生時代中期(約二千年前)、下層面遺構は縄文時代晩期中葉(約三千年前)



全景 手前が「北1区」 右奥が「南1区」


「南1区」の全景 右の人は出土した柱が乾燥しないように霧吹きをしています


堰遺構(上層遺構面)


下層遺構面

焼土


土器棺墓

出土物

土偶


観 音 寺 T 区
橿原考古学研究所(橿考研)

本馬地区の道路一本を挟んで北側の橿原市観音寺町地区

上層面遺構では弥生時代中期前半の方形周溝墓や、弥生時代後期から古墳時代前期の自然河道・溝や、中世の掘立柱建物・井戸などが確認されました。
大きな成果が得られたのは下層遺構面で、縄文時代晩期中葉頃(約三千年前)の自然河道・土器棺墓・方形石組み炉・土器溜まりが確認されました。


全景 左は葛城山 中央奥は二上山 その右横遠くは生駒山















なお、この遺跡は、今回の調査で新たに確認されたことから、
遺跡の範囲・名称については、周辺地区の調査成果とあわせて、
将来的に決定していく予定となっています。


既に調査の終わった所では橋脚の工事中した



JR和歌山線の踏切を渡り・・・


五条⇒新宿行のバスを見かけ・・・



近鉄の踏切を渡って・・・



関西電力 北葛城変電所


遥か遠くにあった二上山が・・・


調田坐一事尼古神社
(つくだにいますひとことねこじんじゃ)




朝乗り換えた尺土駅はもう直ぐ!



古 代 の た め 池
奈良・高取町 薩摩遺跡

橿原考古学研究所(橿考研)

12月14日(日)


   



金剛山も葛城山も頂上は雲の中












谷間を利用してため池が造られていました









中央の人々の目は、右の人溜の下にある・・・




木  樋






土馬の左の濃灰色の物は、半球に柄を付けたような感じで、大人の手で
丁度握れるくらいの大きさで、 用途はまだ分かっていないとのことでした



高取バイパスの建設に伴って2004(平成16)年度から発掘調査が行なわれ、今回はその第8次調査にあたるものです。
発掘した場所は、上の写真で見るように尾根と尾根とに挟まれた谷の部分で、谷の中の土層は、上から順に中世の層、奈良・平安時代の層、古墳時代の層の三つに分かれます。奈良・平安時代の層からは土器や瓦、土馬、銭貨、木簡などが出土しました。このうち、木簡は橿考研附属博物館で展示されており、説明パネルの写真でそれを見ることになりました。
担当学芸員の説明によると、日本最古の大規模ため池は大阪狭山市にある狭山池ですが、これは国家が造ったもので文献にも残っています。しかし、この薩摩遺跡のため池は、木簡に示されているとおり、この地域の人々が造ったもので、今まで全くその存在は知られていなかったとのことです。一部が見つかった木樋は、現在あるものと同じような構造をしており、水利開発史上、とても重要なものと考えていると説明されました。銭貸は、この木樋の辺りから出土したため、完成式の時に撒かれたのではないかとのことでした。
なお、木樋はため池からの取水口と考えられるが、来年度の調査でこのため池の堤の高さや木樋の構築時期などを明らかにしていきたいとのことで、次の現地説明会が今から待ち遠しく思います。
更に、この地の奥(南)には現在も農業用水を供給する中谷池があり(掲示された空撮写真の中ほど)、その関連性のも注目しているとの
ことでした。


次地への車窓から見た薩摩遺跡


金 堂 の 延 石
柏原市国分東条町 河内国分字跡(八世紀半ば)
12月14日(日)































桜 井 茶 臼 山 古 墳
10月29日(木)

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纒向遺跡 ここは邪馬台国!?
11月14日(土)
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木津川・高麗寺阯
11月21日(土)
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排水を配慮した造成の妙が確認されました






薩 摩 遺 跡 の 木 樋
11月28日(土)
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昔の灌漑の様子を知る上での貴重な施設が見つかりました


宇治川太閤堤 石出しの石張り
12月12日(土)
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